警告
この記事はうっかり現実と数学の区別が付かなくなって書いてしまったクソ記事です。ご注意ください。
今日は絵画・彫刻などの美術が,俳句・短歌・小説などの文学よりも奥が深いことを数学を使って証明してみましょう。
まずは何をもって奥が深いというのかを定義しないといけません。
美術と文学の前に,オセロや将棋などのボードゲームを考えてみましょう。ボードゲームの比較によく使われるのが,探索空間の広さ(可能な局面の数)です。次の論文に概算値が載っています。
モンテカルロ木探索-コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法 p.687 表2
これはゲームとしての出来の良さを表すものではないですが,ゲームの面白さなんて数学的には測りようもないですし,数学的に比較できるのは探索空間の広さくらいしかない気もします。それに「奥が深い」という言葉も,考えてみれば「空間の広さ」を表すものです。
そこで,ここでは思い切って「奥が深い=数が多い」という評価基準を採用しましょう。そういう価値基準で生きている人達もたま見にかけますしね。「私の戦闘力は53万です」という偉人の言葉も残っています。
俳句,短歌,小説
ひらがなの数を濁音と半濁音を合わせて71文字として,俳句,短歌,小説がそれぞれどのくらいあるのか,概算値を出してみましょう。何をもって意味のある俳句や小説と言うのかは定義できないので,ここでは俳句は単に長さ17の文字列,小説は長さ有限の文字列,と定義しましょう。
俳句は 5+7+5 の17音なので 個です。短歌は 5+7+5+7+7 の31音なので 個です。小説は長さの上限が決まっておらず,全て「あ」だけの小説だけでも無限個あるので,小説は無限個あります。
よって俳句,短歌,小説の「奥の深さ」を比較すると俳句 < 短歌 < 小説となります。
無限を比較する
小説は無限個ありましたが,実は数学的には「無限」は一種類だけではなく,「無限」同士の間にも「大小」があります。それが集合の濃度と呼ばれる概念です。
集合 に対し,全単射 が存在するとき と書き,単射 が存在するとき と書き, かつ のとき と書きます。この集合に絶対値の記号を付けたようなもの を集合 の濃度と呼びます*1。濃度は集合の大きさを測るもので,有限集合の「要素の個数」を一般化したものです。
のときは と の間に一対一対応があるので, と は「同じ大きさ」であると言え, のときは, より の方が「大きい」集合と言えます。
自然数全体 の濃度を ,実数全体の集合 の濃度を で表します。また,集合 の部分集合全体からなる集合を と書き,その濃度 を で表すことにします。
濃度に関しては以下の事実が成り立ちます。証明は [1] 東京工業大学の講義ノートや集合論の教科書 集合・位相入門などを参照してください。
- (Bernsteinの定理 [1] 定理3.11) かつ ならば
- ([1] 定理3.13) 任意の集合 に対し,.
- ([1] 定理3.14) . 特に .
- ならば,直積集合 の濃度も となる.
- ならば .
濃度が である集合を可算無限集合,濃度が である集合を連続無限集合と呼びます。
小説全体の濃度
小説全体の集合は無限集合でしたが,その濃度はどうなるでしょうか?実は小説全体は可算無限集合になります。念のために証明も書いておきます。
絵画全体の濃度
では,絵画全体の集合の濃度はどうなるでしょうか?簡単のために,四方の正方形のキャンバスの内部に,濃淡の無い黒一色で描かれた絵画全体の集合 だけを考えましょう。
四方の正方形のキャンバスの内部は数学的には開区間の直積 と同一視できます。 とおくと は全単射なので, は連続無限集合で, も連続無限集合です。濃淡の無い黒一色で描かれた絵画に,黒く塗られた の部分を対応させることで, と は自然に同一視できます。よって です。
キャンバスの大きさや色の制約を無くしても,絵画全体の集合の濃度は になります。彫刻全体の集合の濃度も となります。
文学と美術の比較
以上より,俳句・短歌・小説などの文学と,絵画・彫刻などの美術のどちらが奥が深いかが分かりました。「奥が深い=数が多い」でしたので,濃度が大きい方が奥が深いということになります。
|俳句全体| < |小説全体| = < < |絵画全体| =
小説全体の集合は可算無限集合でした。可算無限は無限の中でも一番小さな無限です。「クックック……奴は無限の中でも最弱」てなもんです。
絵画全体や彫刻全体の集合の濃度は,可算無限 より大きな連続無限 より,さらに大きな濃度 を持っています。
美術は文学に比べて段違いに奥が深いと言っていいでしょう。
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え?本当にいいの?
いいワケないがな
まず俳句全体と「あ」だけで書かれた小説を比べて,小説の方が数が多いというのもどうかと思いますが,単に長さ17の文字列と長さ有限の文字列を比較するという意味でならまあいいでしょう。
もっとヤバいのは
「四方のキャンバスの内部に描かれた絵画全体と の部分集合全体を同一視する」
という所です。これを何の疑いもなく「そだねー」と思えた人はなかなかの現実と数学の区別の付かなさをしています。この同一視は物理的にも無理がありますし,そもそも「部分集合全体」という物の「実在」も問題です。
元ネタ
「俳句は有限個しかない」というネタは見たことがある人も多いと思います。正岡子規が俳句や短歌の有限性を憂いでいたという話もあります。
「51の17乗」は「筆のすべり」でした | 「無理題」に遊ぶ
人問ふて云ふ。さらば和歌俳句の運命は何れの時にか窮まると。対へて云ふ。其窮り盡すの時は固より之を知るべからずといへども概言すれば俳句は已に尽きたりと思ふなり。よし未だ尽きずとするも明治年間に尽きんこと期して待つべきなり。和歌は其字数俳句よりも更に多きを以て数理上より算出したる定数も亦遙かに俳句の上にありといへども実際和歌に用ふる所の言語は雅言のみにして其数甚だ少なき故に其区域も俳句に比して更に狭隘なり。故に和歌は明治已前に於て略ぼ尽きたらんかと思惟するなり。
雑にまとめると「俳句と短歌はオワコン」ですが,「数理上より算出したる定数」を意識しているのが興味深いです。
もう一つは,ボード―ゲームの比較の話です。今は囲碁も含めた全てのメジャーなボードゲームでAIが人間より強いという極めて平和な時代となりましたが,オセロ,チェス,将棋とじわじわと攻略されていた時代には「○○は単純なゲームだから」みたいな趣旨の発言を見聞きすることがありました。
人間VSコンピュータオセロ 衝撃の6戦全敗から20年、元世界チャンピオン村上健さんに聞いた「負けた後に見えてきたもの」 (1/3) - ねとらぼ
オセロは「囲碁や将棋と比べると単純なゲーム」という誤解をずっと受けてきましたが、実際にはそんなことはまったくありません。
(中略)
他の盤上ゲームに決して劣らない複雑性と面白さを持っているのに、コンピュータとやって負けてしまうと「やっぱりオセロは単純だな」とさげすまれてしまうのが怖かった。
人間の手に負えないような巨大な有限同士を比べて,それを価値判断の基準にするというのはアホらしい話です。
そのアホらしい話に反論せずに,なぜかそれを超えるアホな話を思い付いたよ!というのが今回のお話でした。
おしまい。