現実と数学の区別が付かない

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光速の追い風参考記録

陸上のサニブラウン選手が全米大学陸上選手権男子100メートル決勝で9秒97の日本記録を出しました。準決勝ではより速い9秒96でしたが,こちらは追い風2.4メートルの参考記録でした。
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短距離走では追い風が記録に有利に働くため,追い風の平均風速が秒速2.0メートルを超えると記録が公認のものにならずに「参考記録」となります。

短距離走は人類最速を競う競技ですが,物理最速のものといえば「光」です。

その光ですら追い風で速くなるというお話を今日はしたいと思います。

空気中の光速

あらゆる物質の運動の速さは真空中の光速 c=299792458~ \mathrm{m}/\mathrm{s}を超えることができません。じゃあ追い風で速くなることはないんじゃないかと思うかもしれませんが,追い風が吹いているということは周りに空気があるということです。空気中の光速は真空中の光速よりも遅くなっています。その速さの差の分だけ,まだ速くなれる余地が残されているのです。伸びしろですね。

光速は物質中では真空中よりも遅くなります。その速度の比 \begin{align}n={(\mbox{真空中の光速})}/{(\mbox{物質中の光速})}> 1\end{align}をその物質の絶対屈折率といいます。

空気の絶対屈折率は1.000292で,水の絶対屈折率は1.3334です(正確には絶対屈折率は波長によって異なります。この絶対屈折率は波長 589.3~\mathrm{nm} の光に対してのものです)。物質中の光速は絶対屈折率を用いて  \cfrac{c}{n} と表されます。

では,追い風が吹いている空気中を進んでいる光速の速さはどうなるでしょうか?それを計算するために必要なのがローレンツ変換です。

ローレンツ変換

慣性系Sに対してx軸方向に速度 v~\mathrm{m}/\mathrm{s} で等速直線運動をする別の慣性系S'を考えましょう。
S系の時空座標を t,x,y とし,S'系 の時空座標を t',x',y' とします。
f:id:egory_cat:20190608104114g:plain
このとき,次の変換法則が成り立ちます。これがローレンツ変換と呼ばれているものです。
\begin{align*}
t'&=\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}} \left(t-{\frac{vx}{c^{2}}}\right)\\
x'&=\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}} (x-vt)\\
y'&=y
\end{align*}
ローレンツ変換 - Wikipedia
この逆変換を求めると
\begin{align}
t&=\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}} \left(t'+{\frac{vx'}{c^2}}\right)\\
x&=\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}} (x'+vt')\\
y&=y'
\end{align}
となります。

以下ではx軸上の運動のみを考えます。

S' 系から見て速度  \cfrac{dx'}{dt'} で運動している物体があったとします。この物体の運動をS系から観測したときの速度 \cfrac{dx}{dt}ローレンツ変換を用いて計算してみましょう。ローレンツ変換の逆変換の式を微分すると
\begin{align*}
dt &=\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}} \left(d t'+{\frac{vd x'}{c^2}}\right)\\\
dx &=\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}} (d x'+vd t')
\end{align*}
なので,
\begin{align*}
\cfrac{dx}{dt} =\cfrac{d x'+vd t'}{d t'+\frac{vd x'}{c^2} }=\cfrac{\frac{d x'}{d t'}+v}{1+\frac{v}{c^2}\frac{d x'}{d t'}}
\end{align*}
となります。

追い風の中の光速

さて,一定の風速  v~\mathrm{m}/\mathrm{s} の追い風が吹いている中で光を観測すると,その速さはどうなるでしょうか?

風が一切吹いていない v=0 のとき,光速は  \cfrac{c}{n} となります。ただし n は空気の絶対屈折率です。

風速が  v>0 の場合を考えます。静止系Sから見て,風速と同じ速度で移動する慣性系S'を考えましょう。風と同じ速度で動いているので,S'系 では風を感じません。よってS'系で光速を観測すると,それは無風状態で観測した光速  \cfrac{c}{n} になります。

S'系に対して速度 \cfrac{d x'}{d t'} = \cfrac{c}{n} で運動するものをS系から観測すると,その速度は先ほどの計算により
\begin{align*}
\cfrac{dx}{dt} &=\cfrac{\frac{c}{n}+v}{1+\frac{v}{c^2}\frac{c}{n}}=\cfrac{c+nv}{v+nc}\cdot c \\
&=\left(1+\cfrac{(n^2-1)v}{v+nc}\right)\cdot \cfrac{c}{n}\\
&=\left(1-\cfrac{(n-1)(c-v)}{v+nc}\right)\cdot c
\end{align*}となります*1

0 < v \leq c1 < n であることから, \cfrac{c}{n}<\cfrac{dx}{dt} \leq c が成り立ちます。この\cfrac{dx}{dt} が,風速  v~\mathrm{m}/\mathrm{s} の追い風が吹いているときに観測される光速です。

追い風が吹いている場合の光速は,無風の場合の光速  \cfrac{c}{n} よりは速いが,真空中の光速  c を超えることが無いことが分かりました。

光速の追い風参考記録

 n=1.000292 としましょう。

分母の  v+nc nc が大きいので, v nc に比べて十分小さいとき,追い風の影響で速くなる分  \cfrac{(n^2-1)v}{v+nc}\cdot \cfrac{c}{n} は \begin{align}\cfrac{(n^2-1)v}{nc}\cdot \cfrac{c}{n} =\cfrac{n^2-1}{n^2}\cdot v=5.83744\times 10^{-4} \times v\end{align}という v の定数倍の式で近似できます。

 ac\approx 3.0\times 10^8 なので,0\le v\le 10^6 程度のときはほぼ 5.8\times 10^{-4} \times v です。

短距離走参考記録となる風速  2.0~\mathrm{m}/\mathrm{s}の追い風が吹いている場合は,光は 1.2\times 10^{-3} [\mathrm{m}/\mathrm{s}] ほど,つまり秒速1.2ミリメートルほど追い風の影響で速くなる計算になります。

*1:結果は同じですが波の位相速度としても計算しておきましょう。\gamma=1/\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}} とおきます。S'系から見て位相速度 \cfrac{c}{n} で進む波 \sin(nkx'-ckt')S系から観測すると,\sin\left(nk\gamma (x-vt)-ck\gamma \left(t-{\frac{vx}{c^{2}}}\right) \right)
=\sin\left(k\gamma \left(n+\frac{v}{c}\right)x-k\gamma\left(nv+c\right)t \right)となり,その位相速度は  \cfrac{nv+c}{n+\frac{v}{c}}=\cfrac{c+nv}{v+nc}\cdot c になります。